資料名 | 東海道名所 江の島
(とうかいどうめいしょ えのしま) |
作者 | 歌川 広重 ![]() |
時代 | 江戸 |
時代詳細 | 嘉永4年(1851) |
形態・用途 | 中判錦絵 |
解説 | |
本作は引き潮時の江の島が描かれており、参詣に向かう人々が砂洲(さす)を歩く様子が見られます。この砂洲(さす)は「洲鼻(すばな)」と呼ばれ、現在もこの道に通じる道「洲鼻通り(すばなどおり)」にその名が残っています。なお江戸時代は、現在のように江の島までの橋が架かっていなかったため、満ち潮の時は船に乗って江の島へ渡りました。 本作は東海道の名所風景に、当代諸家(とうだいしょか)の発句集 (ほっくしゅう)を配した絵俳書 (えばいしょ)です。嘉永4年(1851)に版元の永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本で、元は版本(はんぽん)として売り出されたものが、江戸から伊豆(いず)にかけての風景を画帖 (がじょう)の形式で再版されたものらしく、各図が独立した一枚の絵として鑑賞できるようになっています。本作を描いた時期、広重は天童藩(てんどうはん)からの依頼により多数の肉筆画(にくひつが)を描いており、自然な奥行きを感じさせる構図や、青みがかった淡い色調など、肉筆(にくひつ)(直接に筆で描いた作品)の風景画に通じる表現も見られます。 |
歌川 広重 (うたがわ・ひろしげ)
寛政9年~安政5年9月6日(1799~1858)。安藤氏。幼名徳太郎。のちに重右衛門、徳兵衛。歌川豊広の門人で、他に狩野派、南画、四条派の画法も修得しています。作画期は文政元年頃から没年まで(1818-1858年)で広重の他一遊斎(文政元年~天保元年頃)、幽斎(天保1,2年頃)、一立斎(天保3年~13年頃〉、立斎(天保13年~安政5年頃)、歌重(天保末)などの画号があります。初めは歌川派の美人画、役者絵、武者絵を描いていましたが、天保年間より風景画家の道を歩み、著名な東海道五拾三次をはじめ多くの名所絵を発表し、花鳥画、動物画なども手がけました。